2012年に町田市立国際版画美術館の「北斎と広重」展に行き、一枚の絵に強い印象を受けた。


それは歌川広重の富士三十六景の中の一枚「さがみ川」だ。



[大判錦絵 安政5年(1858年)版元:蔦屋吉蔵]



絵の奥には雪を抱く富士山があり、その手前に大山が重なり、さらにその手前は滔々と流れる相模川、そこには筏が二艘とそれを操る粋な船頭がいる。



この風景は相模野台地に育った者には懐かしさを感じさせるが、それもそのはず、海老名市の南部、門沢橋付近から見た構図だと推察されている。


筆者が特に興味を惹いたのは筏の存在で、そこには小さな小屋があって、その中に炉があり炭が熾きている。



さてさて、この筏はどこからきてどこへ行くのだろうか?

その謎解きに、相模原市立博物館の市民研究室で学芸員のアドバイスを受けながら資料を見てゆくと、面白い資料に出会った。

 

[延亨4年(1747年)荒川番所五分一運上値段]



荒川番所は、現在の緑区太井(旧津久井町)にあった幕府の出先機関で、津久井地方で産出され、相模川を下る諸商品の公定値段の5分の1にあたる額を税として徴収する「税務署」だった。



江戸の都市域の拡大などによる需要に応えるために、津久井地域で算出される様々な物品が船や筏で運ばれたことが分かる。その品目は炭と木材がほとんどで、森林資源とその加工品が江戸時代の津久井地域の代表的な産品であり、津久井の山間地域の経済を支えていたことがわかる。



さて、相模川を下った筏の木材はどうやって江戸まで運ばれたのかというと、河口近くの廻船問屋に渡り、船で江戸まで運ばれていたようだ。

そこで分かったこと 現在では、青森ヒバ、秋田スギ、天竜スギ、尾鷲ヒノキ、吉野スギなどの木材の名産地があり、そこで産出した木材は名木として扱われる。 一方で津久井産材については、地元の大工さんでも知らない・使ったことがないなどの反応が多く、残念ながら名木とは程遠い存在だ。 ところが 江戸時代まで遡ると、津久井産材は木材の産地として江戸では知られていたようだ。 「さがみ川」の筏がきっかけで調べてゆくと、半原大工の腕が良かったらしい?という話を散見し、愛川町郷土資料館を訪ねてそれを調べることにした。

愛川町の半原は撚糸・繊維業が有名な地域だが、半原大工を調べたら…


郷土資料館には様々な資料や人的ネットワークがあり、多くを知ることとなった。


その一部をご紹介すると、江戸時代から半原大工の中心になったのは幕府作事方で宮大工の矢内家で、その匠歴譜「半原宮大工 矢内匠家」をまとめた鈴木光雄氏は、その流れをくむ宮大工としてまだ現役で活躍されていることが分かった。


※作事方(さくじかた):江戸幕府の役職。作事奉行の下に属して工事関係に当たった


その本にある、立川流宗家 匠系譜 によると、江戸城普請大棟梁の平内但馬守吉政を筆頭(左上)に、17~18世紀頃の系譜が記され、右端赤枠内が柏木・矢内匠家となる。



12代 柏木右兵衛安則(半原宮大工匠家)(江戸城普請作事方、大久保家)18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍し、その孫にあたる14代 矢内右兵衛高光(将軍作事方、名字帯刀御免矢内与)が19世紀後半に活躍していた様子がうかがえる。


14代 矢内右兵衛高光の名が記される絵図「職人尽くし」は、当時の大工仕事の様子が現されていて興味深い。



木挽鋸を使って板挽きを行う職人、ノミとゲンノウで柱にホゾ穴を空ける職人、サシガネで墨付けをする人(これが親方の高光さんか?)、チョウナで木を削る職人など、活き活きと描かれている。




冒頭の「さがみ川」が描かれた1858年は高光が36歳の年なので、あの筏で運ばれた丸太がここで使われていることは・・・ありえない話ではない。

ところで、江戸の町に直に至る荒川の上流には秩父が、やや離れた多摩川の上流には奥多摩があり、それぞれの流域からも木材は江戸に運ばれていたはずだ。相模川から運ばれる木材は、一旦廻船に載せ替えて相模湾から東京湾へ三浦半島を迂回して運ぶ必要があり、コスト的に不利だったと考えられる。

それでも必要とされて運ばれた理由は・・・もしかすると、質が良かったからでは? などと想像は膨らむが、確かめられてはいない。

また、江戸の町にも大工職人はいたはずなのに、なぜわざわざ半原から行ったのか? もしかすると、産地に近いところでプレカットして木材の嵩を減らし、それを船で運んで江戸で組み立てていて、職人は木材と共に産地から江戸に行ったのではないか? などと想像が膨らむが、こちらも確かめられてはいない。


また、郷土資料館にある「神奈川の林政史」には多くの興味深い林業の歴史や写真が載っていて、特に興味を惹いたのがこれ!「バラ流しされて木材の集積」(現、津久井弁天橋附近 昭和13年頃)


津久井の弁天橋は複数箇所あり、どこなのかわかりにくいものの、桂川(相模川)と道志川の合流地点・沼本のようだ。水量が少ない上流域ではバラで流し、ここで筏に組んで河口まで運んだそうだ。



昭和13年と言えば80年ほど前のこと。自動車(陸路)が一般的になる前は水運が主な物流手段だったことが分かる。

 


つづいてこれ! 「相模川の筏流し」 


やや不鮮明だが、急峻な山が迫る川を流れる筏の写真で、船頭はのどかでありつつ粋にも見える。


この他にも、この資料からは、山から木材を運び出す「修羅出し」、丸太で水を貯める堰を作り、それを破堤させて木材を下流に押し流す鉄炮堰など、急峻な山から水量が少ない渓流を経て木材を運び出す知恵や工夫を知ることとなった。


オマケ情報
冒頭の絵「さがみ川」を展覧会の図録で読むと、この絵はゴッホの「タンギー爺さんの肖像」の背景に描かれていた浮世絵の一つだということが知られているそうだ!



どこかな?



そうです!
最上部の中央で、タンギー爺さんの顔の真後ろがそれです。



[ 参考資料]
1.北斎と広重 きそいあう江戸の風景 発行:町田市立国際版画美術館 2012年
2.幕府作事方 柏木、矢内匠家 半原宮大工矢内匠家匠歴譜 著者:鈴木光雄 平成21年発行
3.神奈川の林政史 神奈川県農政部林務課 編 1984年
4.相模川・相模湾水運と須賀村の繁栄 
その4,5 平塚市博物館 Webサイト 2011年

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